ブログ
2020年12月10日 [ニュース]
運命を決めたあの日の出来事
あれは2002年の夏。うだるような昼下がりのことだ。遅めの昼食をとっていた私の携帯電話が鳴った。当時勤務していた病院の患者で、院内で定期開催していた生涯学習講座の常連でもあった品のいい70代の女性である。SOSだった。
「お忙しいのにごめんなさいね。わたし、もうどうしていいかわからなくって…」
83歳のご主人の大腸がんが発覚したが、当の本人は痛くもかゆくもない。にもかかわらず、精密検査を受けた病院からは即手術すべしと言われたものだから、ご主人はうなだれ落ち込んでいたかと思うと、奥さんに突然つっかかったり怒鳴り散らしたりで手がつけられない。娘夫婦に相談しても動転するばかりでらちが明かず、わらをもつかむ思いで電話してきたのだと言う。
電話を終えるや、外科の外来診察の合間に飛び込んで非常勤のドクターに状況を話すと。「詳しいことがわかんないと何とも言えんけどさ。怪しいと思えば切っちゃう。それが外科医のスタンダードだから。ま、外科医の切りたがり…とも言うけどね。ワ〜ッハッハ」とのこと。
その日、定時に職場を出るや書店に走り、ためらいなくがん関連の書物を買い漁った。帰宅するや不眠不休で読み倒し、重要と思える箇所にラインマーカーを塗ったくる。翌日、相談者である奥様とご主人を訪ね、がんという病気の特性を何時間もかけて説明した。
「私は医者ではありません。ですから本に書かれている内容の最大公約数的なことしか伝えられませんが」
そう断った上で、
「まず、がんの進行は極めてゆっくりなので、仮に本当にがんであったとしても、心筋梗塞や脳梗塞と違って、考える時間は十分にあります。つぎに、がんは生活習慣病の代表ですから、これまでの人生を振り返ってみて、何かカラダに悪そうな習慣が思い当たるようなら、ご主人、それを今この瞬間から改めてみませんか? 最後に、他の医者の見解も聞いてみましょう。本当にがんかどうかの判定も、そうであった場合の治療方法も、医者によってかなり差があるようですから。大腸がんで実績の高い医者を、東大系、京大系、慶大系それぞれピックアップしますから。もちろん、私も同席させていただきますから」
いま当時を振り返ると冷や汗ものだが、何かにとりつかれたように一気に話し終えたとき、私は信じられない光景を目の当たりにする。あの場面のことは、20年近く経った今でも決して忘れることができない。
奥さんと、父親を心配してかけつけた娘さん。ふたりの目から、とめどなく涙が溢れていたのだ。
「助けてください!どうか力を貸してください!」
「私たちだけでは何もできません。どうか。どうか、父と母を支えてあげてください!お願いします!」
目を閉じてゆっくりとうなずいているご主人の頬にも光るものがひとすじ二筋。こうなると、もう理屈ではなかった。できるできないの問題ではない。この人たちを救ってあげなければ、いま自分がここに存在している意味がない! そう思った。
「私にできることはすべてやります。ですからご主人。まずは今の状況をネガティブに捉えるような言動はやめませんか? 本によると、それこそ、がん細胞の思うツボのようですから。むずかしいかもしれませんが、なぜ他の誰でもないご主人が、今この時期にがんになってしまったのか。その意味を考えてみていただけませんか? がんという病気は、その人の人生を振り返る機会を与えてくれる病気のようなんですよね。本によると」
そう続けながら、私は胸のうちで何かが弾けるのを感じていた。
翌日、娘さんに同行し、ご主人に大腸がんを告げた病院でカルテの写しと検査データを入手。並行して、同窓会名簿および名刺箱をひっくり返して、所見を聴くのにふさわしそうな医者20数名をピックアップ。ちゅうちょなく、無遠慮でぶしつけなメールと手紙を送りつけた。併せて、がんを克服した患者による体験本を読み漁っては、ご主人に読んでほしい箇所に印をつけては、ご主人にのもとに走り届けた。こういうのを火事場のバカ力というのだろうか。
すると、3日以内に4名、一週間もすると10名以上の医者から返事が来た。「必要な情報さえ用意してもらえれば、いつでも診ますよ」と、快諾を得ることができた。そして、結果的に5名の医者の所見を聴き、手術しないという結論を出したのだった。その上で、私がいろいろと探してきた生活改善策のなかから、温熱療法と食事療法、さらには内観療法にトライすることとなった。
ちなみに、セカンドオピニオンを受けた医者のうち3名が、こんな所見をくれたことが、今でも強く印象に残っている。
「がんである確率が100%でない上、本人に何ら自覚症状がないこと。年齢的なことから、摘出手術後の抗がん剤治療の生活のことを考慮すると、速やかに手術すべきとは言いがたい。私の肉親であれば、必ずしも摘出手術を選択しないと考えます」
医者というのは、患者に施す治療と身内に行う治療が異なるものだ。にもかかわらず、身内に寄り添うような説明とアドバイスをしてくれた同窓の先輩たちには心から感謝している。この一件以来、セカンドオピニオンを受診する際には、必ずこう訊くようにしている。
「ドクターの身内の方が同じ状況にあったとしたら、どうされますか?」
話を戻そう。結局ご主人は、日々の生活を見直しながら、手術することなく過ごしたわけだが、やがて私が別の病院へ転職したのを機に、徐々に関係も薄れていった…。
この奥さんから再び連絡が入ったのは、私が最後に勤務した病院を離れ、NPOの活動に専念しつつも収入が激減し思案に暮れていた時期だった。2012年の秋のことである。ご主人が亡くなったことを知った私は、通夜と告別式の日取りを確認しながら、きちんと挨拶もせぬままに病院を移ってしまった不義理を後悔していた。
聞けばご主人は、その後も生活習慣に気を配りながら、趣味の釣りや囲碁を楽しみながら穏やかに過ごされたとのこと。年に二回、ご夫婦で温泉旅行にも出かけられたことを奥さんはとても喜んでいた。さいごまで、大した痛みもなく、体調不良も訴えずにエンディングを迎えられたそうだ。
告別式で、奥さんに言われたのを覚えている。
「おかげさまで、私も娘も、納得して主人を見送ることができました。がんの一件があって依頼、主人の怒りっぽかった性格が消えちゃったんですよねぇ。主人はいつも、山崎さんにいただいた本や資料をそばにおいて読み返していました。内観をやっていただいてからは、私や娘に感謝や謝罪の言葉まで口にするようになりましてね。最初はどうしちゃったのかとびっくりしたんですが、主人がそうなると、私のほうも主人にやさしく接することができるようになって。あれから10年…。なんだか、がんのおかげで最後のさいごに、安らかなふたりの時間が持てたように思えるんですよねぇ」
そして、その後の私を決定づける出来事が...。
ご主人の葬儀が終わり、おいとましようとしていた私のところに、奥さんと娘さんが駆け寄ってきて分厚い封筒を差し出したのだ。菓子おりの上に乗せて。
「これ、主人からです。あなたに渡してほしいって」
「???」
「父は最後のさいごまで、あなたに出会えたことに感謝してました。がんを告知されてからというもの、死ぬことが恐くて、ちょっとしたことで怒って母に八つ当たりして。でも、あなたにお会いして、がんという病気についていろんなお話を聴かせていただいて、たくさんの本もいただいて。その本に付箋や書き込みがいっぱいしてあって。動揺していた気持ちがだんだん和らいできたって言ってました。最後に母と仲良く過ごせたのは全部あの人に会えたおかげだって。できれば、もう一度会って、直接お礼が言いたかったなぁって。父の気持ちなので受け取ってやってください」
娘さんの話を黙って聴きながら、ジーンときた。当時の私は、本当は自分がいちばん不安だったのに、必死でそれを見せまいと、祈るような思いで奔走していただけだった。でも、娘さんの言葉と奥さんの笑顔に触れて改めて思った。
できるかぎりのことをしておいてよかった…。
安堵の涙をぬぐうと、呼んでもらったタクシーのなかで、手渡された封筒を開けてみる。
そして、後部座席で私はぶっ飛んだ!
なんと、100万円!
同封された手紙には、危ういほどの筆圧で力ない文字がつづられていた。
「私はあなたに救われました。がんになるまでの私は、自分勝手のわがままで、ひどい男でした。でも、妻と娘にわびて、そしたら心が落ちついてきました。ラクな気分で死んでいけます。すべてあなたのおかげ。ありがとうございました」
なんだか、涙がこぼれて、こぼれて、こぼれて止まらなかった。ただ必死になって飛び回っただけの私に、こんな言葉をかけてくれるなんて、私には想定外のことだったからだ。がんのことだって、今にして思えば、もしかしたら誤った情報や、単なる私の思い込みを届けていた可能性だってあるかもしれない。ただ結果オーライだっただけかもしれない。なのに…。
心のこもった、最後の力をふりしぼった手紙。そして御礼と書かれた封筒の中身は、想像だにしなかった100万円だ。
私はNPOへの寄付という扱いで、つつしんでこれを受け取ることにした。帰宅して早速奥さんと娘さんにお礼状をしたためると、数日後に娘さんから返信が届いた。
「父の件でよくわかりました。頼れる誰かがいるというのは、本当に安心できることなのですよね。母も私もあなた様を頼りにしております。母ももう歳です。これからいろいろあると思います。支えていただけませんか。どうぞよろしくお願い致します」
これを読んだとき、これから進む道が決まった!
相談を聴いて答えを伝える。それだけじゃダメ。
情報や講座だけじゃダメ。
実際に必死になって動かなきゃダメ。
年齢的なこと、健康上のこと、家庭の事情。
いろんな理由で円滑に動けない人に代わって動いてあげなきゃダメ。
代わりに動いてあげる時間と労力に、そして、その必死な姿に、人は価値を感じておカネを払ってくれるものなのだ。
世の中の相談窓口は聴いて答えるだけ。
でも自分は、実際に動いてあげるんだ!
これこそが、他とは決定的に異なる自分のアドバンテージなのである。
あれから20年。今、私はつくづく思う。
年配の人は、医者もクスリも水道もタダだと思ってるフシがある。情報もまた然り。ただ相談に乗るだけでは、それがいかに価値ある情報であっても、財布を開かないのである。目に見えて、動いてくれてるんだなと、理屈ではなく見える化して、カラダでわかってもらわないかぎりおカネを戴くことはできない。
カウンセラーじゃダメ。アドバイザーじゃダメ。コーディネーターじゃダメ。コンシェルジュでなければならない。そういうことなのだ。このご家族とのやりとりを経て、私は「人生100年時代の老い先コンシェルジュ」というコンセプトに行き着いたのである。
かくして、2013年よりコンシェルジュサービスを前面に打ち出しての活動がスタートした。そして、今現在も、相談者に同行したり、相談者や家族の代わりに手続きをしてあげたり、事情を聴いて一から十まで請け負ってあげたり...。そうすることの対価で生業を立てているのである。
「お忙しいのにごめんなさいね。わたし、もうどうしていいかわからなくって…」
83歳のご主人の大腸がんが発覚したが、当の本人は痛くもかゆくもない。にもかかわらず、精密検査を受けた病院からは即手術すべしと言われたものだから、ご主人はうなだれ落ち込んでいたかと思うと、奥さんに突然つっかかったり怒鳴り散らしたりで手がつけられない。娘夫婦に相談しても動転するばかりでらちが明かず、わらをもつかむ思いで電話してきたのだと言う。
電話を終えるや、外科の外来診察の合間に飛び込んで非常勤のドクターに状況を話すと。「詳しいことがわかんないと何とも言えんけどさ。怪しいと思えば切っちゃう。それが外科医のスタンダードだから。ま、外科医の切りたがり…とも言うけどね。ワ〜ッハッハ」とのこと。
その日、定時に職場を出るや書店に走り、ためらいなくがん関連の書物を買い漁った。帰宅するや不眠不休で読み倒し、重要と思える箇所にラインマーカーを塗ったくる。翌日、相談者である奥様とご主人を訪ね、がんという病気の特性を何時間もかけて説明した。
「私は医者ではありません。ですから本に書かれている内容の最大公約数的なことしか伝えられませんが」
そう断った上で、
「まず、がんの進行は極めてゆっくりなので、仮に本当にがんであったとしても、心筋梗塞や脳梗塞と違って、考える時間は十分にあります。つぎに、がんは生活習慣病の代表ですから、これまでの人生を振り返ってみて、何かカラダに悪そうな習慣が思い当たるようなら、ご主人、それを今この瞬間から改めてみませんか? 最後に、他の医者の見解も聞いてみましょう。本当にがんかどうかの判定も、そうであった場合の治療方法も、医者によってかなり差があるようですから。大腸がんで実績の高い医者を、東大系、京大系、慶大系それぞれピックアップしますから。もちろん、私も同席させていただきますから」
いま当時を振り返ると冷や汗ものだが、何かにとりつかれたように一気に話し終えたとき、私は信じられない光景を目の当たりにする。あの場面のことは、20年近く経った今でも決して忘れることができない。
奥さんと、父親を心配してかけつけた娘さん。ふたりの目から、とめどなく涙が溢れていたのだ。
「助けてください!どうか力を貸してください!」
「私たちだけでは何もできません。どうか。どうか、父と母を支えてあげてください!お願いします!」
目を閉じてゆっくりとうなずいているご主人の頬にも光るものがひとすじ二筋。こうなると、もう理屈ではなかった。できるできないの問題ではない。この人たちを救ってあげなければ、いま自分がここに存在している意味がない! そう思った。
「私にできることはすべてやります。ですからご主人。まずは今の状況をネガティブに捉えるような言動はやめませんか? 本によると、それこそ、がん細胞の思うツボのようですから。むずかしいかもしれませんが、なぜ他の誰でもないご主人が、今この時期にがんになってしまったのか。その意味を考えてみていただけませんか? がんという病気は、その人の人生を振り返る機会を与えてくれる病気のようなんですよね。本によると」
そう続けながら、私は胸のうちで何かが弾けるのを感じていた。
翌日、娘さんに同行し、ご主人に大腸がんを告げた病院でカルテの写しと検査データを入手。並行して、同窓会名簿および名刺箱をひっくり返して、所見を聴くのにふさわしそうな医者20数名をピックアップ。ちゅうちょなく、無遠慮でぶしつけなメールと手紙を送りつけた。併せて、がんを克服した患者による体験本を読み漁っては、ご主人に読んでほしい箇所に印をつけては、ご主人にのもとに走り届けた。こういうのを火事場のバカ力というのだろうか。
すると、3日以内に4名、一週間もすると10名以上の医者から返事が来た。「必要な情報さえ用意してもらえれば、いつでも診ますよ」と、快諾を得ることができた。そして、結果的に5名の医者の所見を聴き、手術しないという結論を出したのだった。その上で、私がいろいろと探してきた生活改善策のなかから、温熱療法と食事療法、さらには内観療法にトライすることとなった。
ちなみに、セカンドオピニオンを受けた医者のうち3名が、こんな所見をくれたことが、今でも強く印象に残っている。
「がんである確率が100%でない上、本人に何ら自覚症状がないこと。年齢的なことから、摘出手術後の抗がん剤治療の生活のことを考慮すると、速やかに手術すべきとは言いがたい。私の肉親であれば、必ずしも摘出手術を選択しないと考えます」
医者というのは、患者に施す治療と身内に行う治療が異なるものだ。にもかかわらず、身内に寄り添うような説明とアドバイスをしてくれた同窓の先輩たちには心から感謝している。この一件以来、セカンドオピニオンを受診する際には、必ずこう訊くようにしている。
「ドクターの身内の方が同じ状況にあったとしたら、どうされますか?」
話を戻そう。結局ご主人は、日々の生活を見直しながら、手術することなく過ごしたわけだが、やがて私が別の病院へ転職したのを機に、徐々に関係も薄れていった…。
この奥さんから再び連絡が入ったのは、私が最後に勤務した病院を離れ、NPOの活動に専念しつつも収入が激減し思案に暮れていた時期だった。2012年の秋のことである。ご主人が亡くなったことを知った私は、通夜と告別式の日取りを確認しながら、きちんと挨拶もせぬままに病院を移ってしまった不義理を後悔していた。
聞けばご主人は、その後も生活習慣に気を配りながら、趣味の釣りや囲碁を楽しみながら穏やかに過ごされたとのこと。年に二回、ご夫婦で温泉旅行にも出かけられたことを奥さんはとても喜んでいた。さいごまで、大した痛みもなく、体調不良も訴えずにエンディングを迎えられたそうだ。
告別式で、奥さんに言われたのを覚えている。
「おかげさまで、私も娘も、納得して主人を見送ることができました。がんの一件があって依頼、主人の怒りっぽかった性格が消えちゃったんですよねぇ。主人はいつも、山崎さんにいただいた本や資料をそばにおいて読み返していました。内観をやっていただいてからは、私や娘に感謝や謝罪の言葉まで口にするようになりましてね。最初はどうしちゃったのかとびっくりしたんですが、主人がそうなると、私のほうも主人にやさしく接することができるようになって。あれから10年…。なんだか、がんのおかげで最後のさいごに、安らかなふたりの時間が持てたように思えるんですよねぇ」
そして、その後の私を決定づける出来事が...。
ご主人の葬儀が終わり、おいとましようとしていた私のところに、奥さんと娘さんが駆け寄ってきて分厚い封筒を差し出したのだ。菓子おりの上に乗せて。
「これ、主人からです。あなたに渡してほしいって」
「???」
「父は最後のさいごまで、あなたに出会えたことに感謝してました。がんを告知されてからというもの、死ぬことが恐くて、ちょっとしたことで怒って母に八つ当たりして。でも、あなたにお会いして、がんという病気についていろんなお話を聴かせていただいて、たくさんの本もいただいて。その本に付箋や書き込みがいっぱいしてあって。動揺していた気持ちがだんだん和らいできたって言ってました。最後に母と仲良く過ごせたのは全部あの人に会えたおかげだって。できれば、もう一度会って、直接お礼が言いたかったなぁって。父の気持ちなので受け取ってやってください」
娘さんの話を黙って聴きながら、ジーンときた。当時の私は、本当は自分がいちばん不安だったのに、必死でそれを見せまいと、祈るような思いで奔走していただけだった。でも、娘さんの言葉と奥さんの笑顔に触れて改めて思った。
できるかぎりのことをしておいてよかった…。
安堵の涙をぬぐうと、呼んでもらったタクシーのなかで、手渡された封筒を開けてみる。
そして、後部座席で私はぶっ飛んだ!
なんと、100万円!
同封された手紙には、危ういほどの筆圧で力ない文字がつづられていた。
「私はあなたに救われました。がんになるまでの私は、自分勝手のわがままで、ひどい男でした。でも、妻と娘にわびて、そしたら心が落ちついてきました。ラクな気分で死んでいけます。すべてあなたのおかげ。ありがとうございました」
なんだか、涙がこぼれて、こぼれて、こぼれて止まらなかった。ただ必死になって飛び回っただけの私に、こんな言葉をかけてくれるなんて、私には想定外のことだったからだ。がんのことだって、今にして思えば、もしかしたら誤った情報や、単なる私の思い込みを届けていた可能性だってあるかもしれない。ただ結果オーライだっただけかもしれない。なのに…。
心のこもった、最後の力をふりしぼった手紙。そして御礼と書かれた封筒の中身は、想像だにしなかった100万円だ。
私はNPOへの寄付という扱いで、つつしんでこれを受け取ることにした。帰宅して早速奥さんと娘さんにお礼状をしたためると、数日後に娘さんから返信が届いた。
「父の件でよくわかりました。頼れる誰かがいるというのは、本当に安心できることなのですよね。母も私もあなた様を頼りにしております。母ももう歳です。これからいろいろあると思います。支えていただけませんか。どうぞよろしくお願い致します」
これを読んだとき、これから進む道が決まった!
相談を聴いて答えを伝える。それだけじゃダメ。
情報や講座だけじゃダメ。
実際に必死になって動かなきゃダメ。
年齢的なこと、健康上のこと、家庭の事情。
いろんな理由で円滑に動けない人に代わって動いてあげなきゃダメ。
代わりに動いてあげる時間と労力に、そして、その必死な姿に、人は価値を感じておカネを払ってくれるものなのだ。
世の中の相談窓口は聴いて答えるだけ。
でも自分は、実際に動いてあげるんだ!
これこそが、他とは決定的に異なる自分のアドバンテージなのである。
あれから20年。今、私はつくづく思う。
年配の人は、医者もクスリも水道もタダだと思ってるフシがある。情報もまた然り。ただ相談に乗るだけでは、それがいかに価値ある情報であっても、財布を開かないのである。目に見えて、動いてくれてるんだなと、理屈ではなく見える化して、カラダでわかってもらわないかぎりおカネを戴くことはできない。
カウンセラーじゃダメ。アドバイザーじゃダメ。コーディネーターじゃダメ。コンシェルジュでなければならない。そういうことなのだ。このご家族とのやりとりを経て、私は「人生100年時代の老い先コンシェルジュ」というコンセプトに行き着いたのである。
かくして、2013年よりコンシェルジュサービスを前面に打ち出しての活動がスタートした。そして、今現在も、相談者に同行したり、相談者や家族の代わりに手続きをしてあげたり、事情を聴いて一から十まで請け負ってあげたり...。そうすることの対価で生業を立てているのである。