ブログ
2019年04月14日 [ニュース]
桜が散って…
平成最後の桜も最終コーナーに差しかかっています。
今回は、桜と言葉の話です。
部下にとって、自分の持ち味や成果を理解され評価されることは、何よりの感激であり自信となるものです。また、自分の間違いや未熟さを指摘されることで反省や反骨心が芽生え、上司や組織のためにも「よぉし、やってやろう」という意欲に駆り立てられるものではないでしょうか。
ここに、異動を控えたある営業マンがいます。入社以来5年にわたり指導を受けた上長に挨拶に出向いたときのことです。
「得意先の部長から電話があったぞ。お前が担当になって、お宅の会社が変わったって思ったそうだよ。あの営業マンなら自分のところも変えてくれるかもしれないって期待を持ったって。だから今ここでお前を代えられては困るって泣きつかれたよ。俺も営業現場は長いけど、あんなことを言われたのは初めてだ。お前ももう一丁前だな。がんばれよ」。
そう言ってポ〜ンと肩を叩いた上長。叩かれた部下。
その言葉に、部下である営業マンは全身の血が沸き立ち、歓びに震える思いがしたそうです。同時に、入社以来のさまざまな出来事が思い出され目頭を熱くするとともに、新天地での更なる飛躍を誓ったといいます。
ある人がある時に発した言葉がどんなに人の心を揺さぶったとしても、別の誰かがそれを用いたときに同じように効果を生むとは限りません。
それは言葉というものの本質が、表層的な語彙的なものだけではなく、その言葉を発した人間の世界全体を否応なしに背負ってしまうところにあるからです。
かれこれ3年ほど前、人間国宝の染織家・志村ふくみさんのパーティに参加する機会がありました。その時彼女が着ていたのは、何とも形容しがたいような桜色の糸で織られた着物でした。そのピンクは、淡いようでいて燃えるような強さを内に秘め、華やかでありながらしっとりと落ち着いた深みがあり、見るものの目と心を吸い込むようでした。
素人の気安さから、これはきっと本物の桜の花びらから取り出した色に違いないと訊いてみると、なんとそれは、桜の花びらではなく樹皮を濾したものだったのです。あの黒くてゴツゴツした木の皮から、あんなにも美しいピンクが生まれることは驚きでした。しかもそれは、一年中いつでも取れるわけではない。桜が開く直前のほんの1、2週間。厳選された山桜の樹皮を染めてこそ、あの上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるのだそうです。
この話を聞いて、私は地下鉄が一瞬地上に出たときのような不思議な感覚に襲われました。春先まもなく咲き出でんとしている桜の木が、花びらだけではなく木全体で最上級のピンクを出そうと懸命に生きている姿が浮かんだからです。
花びらのピンクは、幹の、枝の、根っこの、樹皮の、樹液のピンク。でも私たちの視界に入るのは、桜の花びらに現れたピンクでしかありません。桜の木全体の、一刻も休むことのない全身全霊の生命活動のほんの一端にしか過ぎないということです。
そう考えると、これは私たちの言葉の世界と同じではないかとハッと気づかされるのです。私たちが話す言葉ひとつひとつは、桜の花びら一枚一枚。そのひとひらの背後には、そのひとひらを生み出した大きな幹を背負っている。一見ささやかな一言の中に、ある大いなる意味が実感されてきやしないか…。こうしたことを念頭に置きながら、言葉というものを、話すという行為を考える必要があるのではないかと思うのです。
「お前も一丁前だな」
あの時営業マンを感動させた上長の一言は、その上司というひとりの人間全体を表現する一枚の花びらだったのです。部下といかに向き合い、いかに自信を持たせ、いかに育てていくか。時に指導し、見守り、評価し、時に一緒に考え、共に壁を乗り越えていく。そんな意識と言動があってこそ、そんな人材育成観と行動哲学があればこその美しい花びらなのです。
私たちは、自分が発する一言一句が、自分という人間の人格や生きざまそのものを背負ったものであるという自覚をもって語りたいものです。本当の自分自身を現わす本当の言葉を。
木全体を表現する一枚一枚の花びら。その一枚にこめられた心を大切にしたい。そんな一言を届けたい。そうした心を受け止められる心を持ちたいものです。
さあ。頭の中に、心の中に、体じゅうで咲き誇るピンクの桜たちをイメージしてみましょう。桜の木々の息吹が、大自然の生命のメッセージが聞こえてくるでしょうか。そしてそこに、風に舞う桜吹雪のなかを颯爽と闊歩する私たちが見えるでしょうか。
みなさんの人生に、満開の春が訪れることを願い信じ、そして祈っています。
今回は、桜と言葉の話です。
部下にとって、自分の持ち味や成果を理解され評価されることは、何よりの感激であり自信となるものです。また、自分の間違いや未熟さを指摘されることで反省や反骨心が芽生え、上司や組織のためにも「よぉし、やってやろう」という意欲に駆り立てられるものではないでしょうか。
ここに、異動を控えたある営業マンがいます。入社以来5年にわたり指導を受けた上長に挨拶に出向いたときのことです。
「得意先の部長から電話があったぞ。お前が担当になって、お宅の会社が変わったって思ったそうだよ。あの営業マンなら自分のところも変えてくれるかもしれないって期待を持ったって。だから今ここでお前を代えられては困るって泣きつかれたよ。俺も営業現場は長いけど、あんなことを言われたのは初めてだ。お前ももう一丁前だな。がんばれよ」。
そう言ってポ〜ンと肩を叩いた上長。叩かれた部下。
その言葉に、部下である営業マンは全身の血が沸き立ち、歓びに震える思いがしたそうです。同時に、入社以来のさまざまな出来事が思い出され目頭を熱くするとともに、新天地での更なる飛躍を誓ったといいます。
ある人がある時に発した言葉がどんなに人の心を揺さぶったとしても、別の誰かがそれを用いたときに同じように効果を生むとは限りません。
それは言葉というものの本質が、表層的な語彙的なものだけではなく、その言葉を発した人間の世界全体を否応なしに背負ってしまうところにあるからです。
かれこれ3年ほど前、人間国宝の染織家・志村ふくみさんのパーティに参加する機会がありました。その時彼女が着ていたのは、何とも形容しがたいような桜色の糸で織られた着物でした。そのピンクは、淡いようでいて燃えるような強さを内に秘め、華やかでありながらしっとりと落ち着いた深みがあり、見るものの目と心を吸い込むようでした。
素人の気安さから、これはきっと本物の桜の花びらから取り出した色に違いないと訊いてみると、なんとそれは、桜の花びらではなく樹皮を濾したものだったのです。あの黒くてゴツゴツした木の皮から、あんなにも美しいピンクが生まれることは驚きでした。しかもそれは、一年中いつでも取れるわけではない。桜が開く直前のほんの1、2週間。厳選された山桜の樹皮を染めてこそ、あの上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるのだそうです。
この話を聞いて、私は地下鉄が一瞬地上に出たときのような不思議な感覚に襲われました。春先まもなく咲き出でんとしている桜の木が、花びらだけではなく木全体で最上級のピンクを出そうと懸命に生きている姿が浮かんだからです。
花びらのピンクは、幹の、枝の、根っこの、樹皮の、樹液のピンク。でも私たちの視界に入るのは、桜の花びらに現れたピンクでしかありません。桜の木全体の、一刻も休むことのない全身全霊の生命活動のほんの一端にしか過ぎないということです。
そう考えると、これは私たちの言葉の世界と同じではないかとハッと気づかされるのです。私たちが話す言葉ひとつひとつは、桜の花びら一枚一枚。そのひとひらの背後には、そのひとひらを生み出した大きな幹を背負っている。一見ささやかな一言の中に、ある大いなる意味が実感されてきやしないか…。こうしたことを念頭に置きながら、言葉というものを、話すという行為を考える必要があるのではないかと思うのです。
「お前も一丁前だな」
あの時営業マンを感動させた上長の一言は、その上司というひとりの人間全体を表現する一枚の花びらだったのです。部下といかに向き合い、いかに自信を持たせ、いかに育てていくか。時に指導し、見守り、評価し、時に一緒に考え、共に壁を乗り越えていく。そんな意識と言動があってこそ、そんな人材育成観と行動哲学があればこその美しい花びらなのです。
私たちは、自分が発する一言一句が、自分という人間の人格や生きざまそのものを背負ったものであるという自覚をもって語りたいものです。本当の自分自身を現わす本当の言葉を。
木全体を表現する一枚一枚の花びら。その一枚にこめられた心を大切にしたい。そんな一言を届けたい。そうした心を受け止められる心を持ちたいものです。
さあ。頭の中に、心の中に、体じゅうで咲き誇るピンクの桜たちをイメージしてみましょう。桜の木々の息吹が、大自然の生命のメッセージが聞こえてくるでしょうか。そしてそこに、風に舞う桜吹雪のなかを颯爽と闊歩する私たちが見えるでしょうか。
みなさんの人生に、満開の春が訪れることを願い信じ、そして祈っています。